今年のお正月、の巻(2014年編 その5)
昼の12時過ぎ、自分の乗った桜井線の列車はJR奈良駅を発車した。
京終(きょうばて)、帯解(おびとけ)、櫟本(いちのもと)といった地元の
人しか読めないであろう名前を持つ駅を列車は過ぎてゆく。
それにしても帯解(おびとけ)なる駅名のエロさよ。要らぬ妄想を誘うが
如き、である。
JR天理駅で下車する。この駅に降りて感ずるのは、町の規模に関わ
らず駅が大きく駅前が広いことである。
その名の通り天理教の総本山がある場所なので、当然のことなのだろ
う。
実は石上神社に行くにあたっては事前に場所の確認などしていなかっ
た。天理まで行けば何とかなるだろう、と考えていた。駅に行けば多分観
光案内板があるはずだし。だが、その頼みの観光案内版は見当たらなか
った。
山の辺の道沿いにあるのだから、奈良盆地の西に連なる山に向かって
とにかく歩けばその内たどりつくだろう、との軽い気持ちで歩く。
駅前から西に向かって長く延びるアーケードのある商店街を通った。こ
の小さい街にしては人出が多い。先を急ごうと人をよけて歩くのも大変な
くらいだった。やはり大勢の天理教信者たちが初詣で(?)に来るからだろ
う。

天理教総本部の壮大な建物を脇に見ながら、さらに山側に向かって歩
く。
すると「石上神社前」とあるバス停があった。一安心である。神社への案
内表示に従って歩くと、鳥居が見えた。
辺りは木々が鬱蒼と茂り、真昼なのに関わらずそこだけ暗い。古社の雰
囲気に満ち満ちている。

神社の境内に入るとやはり目に入ったのは、放し飼いにされているニワ
トリたちだった。

ニワトリにもこのように放し飼いで外で自由に遊んでいるのもいれば、
ニワトリ小屋にいるのもいた。
これは想像だが、小屋に入れられているのは参拝客に悪さをする素行
不良のニワトリで、それ故独居房たる小屋に強制収容されているのだろ
う。
自分はこのような神社を訪ねても、神様に向かって礼拝をすることはな
い。そもそも信仰心は薄いし、その上キリスト教や仏教と違い神道には教
義はない、と考えている。たとえ神社にお参りしたとしても、人として生きる
ための指針など何一つ示されていないのだ。
ただ、こういう場所に立ち入らせてもらうことにはそれなりの対価が必要
だ、とは感じているので社務所等でお札を売っていれば買うことにしてい
る。
ここ石上神社でも、お札を買った。
そもそも神道についてはそんな気構えである。これまで神社で買ったお
札は実家に置いていたが、それは春日大社のような有名な神社のものだ。
母親もこの石上神社のことなど、まず知らないだろう。「そんなん、いらん
わ」と言われそうな気がしたので、行き場のなくなったお札は仕方なく今の
家に落ち着いた、といった次第だ。
こんな不信心者の家に已むなく置かれたお札である。御利益などまず期
待できぬ。
石上神社探訪もこれ位でよかろう。そろそろ山の辺の道に行くか、と案内
板に従って山の辺の道へと入っていった。
境内から山の辺の道に通じる道も、鳥居の周囲と同様木々のトンネルで
「昼なお暗し」だった。
(続く)
京終(きょうばて)、帯解(おびとけ)、櫟本(いちのもと)といった地元の
人しか読めないであろう名前を持つ駅を列車は過ぎてゆく。
それにしても帯解(おびとけ)なる駅名のエロさよ。要らぬ妄想を誘うが
如き、である。
JR天理駅で下車する。この駅に降りて感ずるのは、町の規模に関わ
らず駅が大きく駅前が広いことである。
その名の通り天理教の総本山がある場所なので、当然のことなのだろ
う。
実は石上神社に行くにあたっては事前に場所の確認などしていなかっ
た。天理まで行けば何とかなるだろう、と考えていた。駅に行けば多分観
光案内板があるはずだし。だが、その頼みの観光案内版は見当たらなか
った。
山の辺の道沿いにあるのだから、奈良盆地の西に連なる山に向かって
とにかく歩けばその内たどりつくだろう、との軽い気持ちで歩く。
駅前から西に向かって長く延びるアーケードのある商店街を通った。こ
の小さい街にしては人出が多い。先を急ごうと人をよけて歩くのも大変な
くらいだった。やはり大勢の天理教信者たちが初詣で(?)に来るからだろ
う。
天理教総本部の壮大な建物を脇に見ながら、さらに山側に向かって歩
く。
すると「石上神社前」とあるバス停があった。一安心である。神社への案
内表示に従って歩くと、鳥居が見えた。
辺りは木々が鬱蒼と茂り、真昼なのに関わらずそこだけ暗い。古社の雰
囲気に満ち満ちている。
神社の境内に入るとやはり目に入ったのは、放し飼いにされているニワ
トリたちだった。
ニワトリにもこのように放し飼いで外で自由に遊んでいるのもいれば、
ニワトリ小屋にいるのもいた。
これは想像だが、小屋に入れられているのは参拝客に悪さをする素行
不良のニワトリで、それ故独居房たる小屋に強制収容されているのだろ
う。
自分はこのような神社を訪ねても、神様に向かって礼拝をすることはな
い。そもそも信仰心は薄いし、その上キリスト教や仏教と違い神道には教
義はない、と考えている。たとえ神社にお参りしたとしても、人として生きる
ための指針など何一つ示されていないのだ。
ただ、こういう場所に立ち入らせてもらうことにはそれなりの対価が必要
だ、とは感じているので社務所等でお札を売っていれば買うことにしてい
る。
ここ石上神社でも、お札を買った。
そもそも神道についてはそんな気構えである。これまで神社で買ったお
札は実家に置いていたが、それは春日大社のような有名な神社のものだ。
母親もこの石上神社のことなど、まず知らないだろう。「そんなん、いらん
わ」と言われそうな気がしたので、行き場のなくなったお札は仕方なく今の
家に落ち着いた、といった次第だ。
こんな不信心者の家に已むなく置かれたお札である。御利益などまず期
待できぬ。
石上神社探訪もこれ位でよかろう。そろそろ山の辺の道に行くか、と案内
板に従って山の辺の道へと入っていった。
境内から山の辺の道に通じる道も、鳥居の周囲と同様木々のトンネルで
「昼なお暗し」だった。
(続く)
この記事へのコメント
ではなく、神社の神奈備た雰囲気を味わいに
行く。「なにごとの おはしますかは 知ら
ねども かたじけなさに 涙こぼるる」とい
った感じ。今は何につけても神頼みはしない
が、だんだんトシを取ると神仏に頼るように
なりそうな気もする。